「政治」と「経済」と「社会」の関係
日本にわずかに残るインテリ層のほとんどは、「政治が良くなれば日本が良くなる」と思い込んでいる。だから、常に政府や政治家を非難し、ときには「反対運動の署名活動」に走る。しかし実際には、当の政治家も、財界人も、専門家と呼ばれる人も、もちろん庶民も「問題の本当の本質」を知らないし、気づきもしない。
そもそも「政治」とは何か。なぜ「政治」が生まれてきたのか。「政治」の本来の役割とは何なのか。同時に「経済」とは何なのか。「社会」とは何なのか。だれもが日常で使う言葉だけれど、この3つの言葉には、明確な位置関係がある。
そのことを理解するために、縄文時代の小さな集落をイメージするところから始めよう。日本の歴史は、世界史の「石器時代」と呼ばれるなかで、石器時代にありながら「縄文時代」と呼ばれる特殊な歴史を持っている。その理由は、石器時代は「狩猟・採集」で食料を調達していたので、その場で食べ物がなくなると移動する生活が基本だったことだ。ところが、日本では、各地の部族が移動せずに同じ土地に定住していた。その証拠が「竪穴式住居」だ。日本は四季があって、食べ物が豊富だったので、少数の部族なら移動する必要がないほど食料が豊かだったと考えられている。しかも、「狩猟・採集」を基本としながらも、後期には原始的な稲作などの農業を営んでいた。
複数の人間が定住すると「社会」ができる。その社会ではまず「水と食料を確保する」ことが最も重要な仕事で、集めた食料は仲間で平等に分け合う。この段階だと、「社会」はあるけれど「経済」も「政治」もない。
食料が豊かになると、人口は増え、やがて道具を作ったり、服を作ったりする分業が起きる。そこで、食料以外のものを適正に分け合う「経済」が起きる。さらに「社会」が大きくなり、顔の見えない仲間で物資を分け合う段階になってくると、それを適正に配分するためのルールが必要になる。そのルールを維持管理するための仕組みが「政治」だ。つまり、「政治」はあとから作られた役割にすぎないのだ。
この話は、政治学とか経済学の視点で書いているのではなく、人類のそもそも論を書いているにすぎない。たとえば、石器時代を抜けて農業が普及すると、食料をたくさん持つ者と、持たない者が生まれ、「持つ者」が「持たない者」を支配する社会の仕組みができた。その仕組みのなかで、支配者の行いを「政治」と呼んで研究しているのが政治学ということになる。さらに「経済」も、「支配者による政治」が主導になって「経済をコントロールしている」という考え方が一般論なのだろう。昔は王や貴族が「政治」を行い、いまは「民主主義」によって、民衆から選ばれた人たちが「政治」を担っている。ようするに、どちらも「支配者(権力者)による政治」が最も上にあるので、「政治を良くすれば経済も社会も良くなる」と思い込まされているように見える。
しかし、それは大いなる錯覚にすぎない。大昔の食料は、自然のものだった。それを適正に配分することで、人口は増え、文明は栄えてきた。いまの食料は、肥料や農薬漬けで、「食べると病気になる」粗悪なものがほとんどだ。しかも、生産技術が頭打ちになっているために、遺伝子組み換え作物や食品添加物による「水増し」によって、かろうじて「間に合っているように見える」だけの、「まやかし社会」になってしまっている。
もし、自然な食べ物が十分にあったら、政治も経済も不安定にはならない。いまの社会を冷静に見渡せば、「生活に必要のないモノ」があふれかえっている。しかも、すべての人間に必要なはずの食料は、「食べると病気になる偽物」ばかりになり、まともな食料は「一部の裕福な人間による奪い合い」になっている。つまり食料は随分前から「足りない状態」になっているのだ。
ところが、大多数の民衆はもちろんのこと、知性のある中流インテリ層もそのことに気づかず、「政治が良くなれば社会が良くなる」という思考から抜け出せない。仮に世界中のすべての政治家が一夜にして聖人になり、いまある「まともな食料」を全人類に公平に配分しようと動いたら、まともな食料はほとんど存在しないので、世界中で暴動が起き、社会は壊滅するしかない。
もっと現実的に表現すると、「遺伝子組み換え作物」を全面的に禁止したら、1年以内に人類の80%は餓死するだろう。いまの人類社会は、そういう状況に陥っているのだ。食料に関するこの負の連鎖は、戦後の大量生産、大量消費、人口爆発の裏でじわじわと進み、心ある指導者たちは「必要悪」として黙認してきた。なぜ現代人の病気が増えているのか。なぜ子供の食物アレルギーが増えているのか。すべては食料生産の歪みが背景にある。いま「政治を変えろ」と叫んでみても、政治家がどう動こうとも、かれこれ80年も放置されてきた問題をすぐに解決する名案はないと思う。
もちろん、いま最優先で実行すべきことは、食料を大量生産することには違いない。しかし例えば、日本政府がいま大号令をかけて、食料生産を進めたとしよう。結局は遺伝子組み換え作物を増産させるか、家畜糞堆肥を使った有機農業を進めるしか方法がない。そうなると、これまで詳しく書いてきたように、従来の技術が食料問題や健康問題を起こしているのだから、当然それでは何の解決にもならないことは明白だ。
そんな状況の中で「自給自足」は本当に可能なのか。ここまで書いてきたことを前提にして、その絶望的な状況でもなお、私は自給自足を実現するための研究を続けてきた。その解決方法は、もちろん自然な農作物を栽培する基本的な技術だけでなく、つくった食料をどう配分するのか、だれが何を作れば良いのか、教育はどうなるのか、医療や福祉はどうなるのか、そういった要素も含めて総合的な対策を描いてきた。いま、もっとも重要な「栽培技術」はクリアできた。その先の仲間との連携も形が見えてきた。
たとえ海外からの輸入がすべて止まっても、最低限の自給自足はおそらく問題なく成立すると考えている。それどころか、世界の困窮している国々の人たちに、安全で美味しい食料を分け与えることも可能だと思う。なぜそう思えるのか、これからじっくりお伝えしていこう。
※現在「自給自足への道~解法のテクニック」(仮称)を執筆中です。そこから一部抜粋しました。