「信じること」と「疑わないこと」

思考の次元を上げていく、つまり3次元から4次元へ。4次元から5次元へ。これは今までの考え方、脳の使い方を変えていくことが大事だと思います。とくに、次元というような目に見えない話については、「言葉」の持つ意味やイメージがとても重要です。

たとえば、社会的によく使われる「信じる」あるいは「信頼」という言葉を例にして考えてみましょう。「日本の政治家」はいまや信頼が地に堕(お)ちた人間の代名詞のように使われています。とはいえ、政治家が金や権力の欲まみれの象徴だと考えれば、なにも今の問題というより、政治そのものの根幹を問うべきものかもしれません。

それでも表向きには、政治家は市民の生命や財産を守ることで報酬を得る仕事のはずなので、信頼されることは必須条件のはずです。しかし、ここで冷静に考えたいのは、「信頼」とか「信用」という言葉は、なぜ存在するのか、という疑問です。言い換えると、「信頼」とか「信用」という言葉を使わなければいけない状況、つまり「人間は根本的に信頼できない」とか「他人は信用でいきない」という寂しい状況が人間社会に存在しているということになります。

では、逆を考えてみましょう。「疑わない」という言葉です。疑う心がなければ、わざわざ「信頼」や「信用」という言葉を使う必要がありません。おそらく生まれたばかりの赤ん坊や幼い子供たちはそうだと思いますが、親や周囲の大人に対して疑うということはありません。人間は、そもそも「疑うこと」がない生き物だということを思い出すことが大事なのです。

いま、人類はとても過酷な時代を迎えています。気候変動に経済危機。人為的に作り出された危機が存在することに気づく人は多少なりとも増えているようですが、ではどうすれば危機を乗り越えられるのか。

もっとも重要なことは、「食べ物を確保すること」だと思います。そのために、完全無肥料・無農薬の技術を研究し、普及してきました。いわゆる一般的な「自然農法」や「自然栽培」とは異なる、完全に何も資材を使わず、畑から一方的に野菜を収穫しつづける農業技術です。この技術を学ぶ人は増えていますが、わりとすんなり習得できる人、なかなか野菜ができない人にくっきり分かれる傾向があります。

その理由がまさに、「信じること」と「疑わないこと」の違いによるものだと考えています。

野菜が育つことに対して信じて疑わない人は、野菜は良く育ちます。逆に、ほんの少しでも「疑いの気持ち」を持つと、なかなか野菜は育ってくれません。もう少し詳しく表現すると、「こうしたら良く育つのではないか」とあれこれ気にしたり、「鳥や虫に食べられてしまうのではないか」と強く心配したりすると、その心配が現実のものになってしまうように見えます。

一時、「引き寄せ」という言葉が流行りました。あるいは「思考は現実化する」という表現も。思考は確かに現実化します。しかし、「思考」という言葉についてよくよく考えてみると、それこそ十人十色であることに思い至ります。
たとえば、広辞苑の説明文を転記してみましょう。以下

思考(しこう)
①思いめぐらすこと。考え。「―力」
②〔哲〕(thinking)
イ広義には人間の知的作用の総称。思惟。
ロ狭義には、感性や意欲の作用と区別して、概念・判断・推理の作用をいう。知的直観をこれに加える説もある。
③〔心〕
イ考えている時の心的過程。
ロある課題の解決に関与する心的操作。

この説明で、具体的なイメージはわくでしょうか? 悲しいかな、私にはさっぱりイメージできません。つまり、思考という言葉に明確な定義や説明など存在せず、個人個人がどうとらえるかにかかっているということになります。しかし一方で、「思考は現実化する」という言葉はその通りだと思っています。こうした矛盾というか、曖昧なというか、とらえどころのない言葉に対して、ついにメスを入れる時代が到来した。私は強くそう感じています。

そして、初めの一歩として大切なことが、「信じる」とか「信頼」という言葉を自分の脳から消去して、「疑わない」という言葉だけを採用してみる、という提案をしています。とても抽象的でどころがないように思われるかもしれませんが、「疑わない」効果は絶大です。これが身に付くに従って、「引き寄せの力」はぐんぐん強くなっていきます。たとえば、不可能だと多くの人が思い込んでいる「完全無肥料・無農薬」の美味しい野菜が嫌というほどできてしまうとか。

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